ロシアの「抑止」はなぜ攻撃まで含む? ウクライナ侵攻の背景にある戦略思想

ロシアの「抑止」はなぜ攻撃まで含む? ウクライナ侵攻の背景にある戦略思想

何が起きた?

ロシアの安全保障を研究する専門家の間では、ロシアと欧米では「抑止」という言葉が指す範囲そのものが違うことが以前から指摘されている。

英語の安全保障論でいう「deterrence(抑止)」は、基本的には「攻撃すれば大きな代償を払う」と相手に思わせ、相手に何かをさせないための考え方である。

一方、ロシアで抑止と訳されることが多い「сдерживание(スデルジーヴァニエ)」、特に「戦略的抑止」は、それよりかなり広い。

軍事的な威嚇だけでなく、政治、外交、経済、情報などを組み合わせて相手を押さえ込み、場合によっては実際に軍事力を使って、相手に行動を変えさせることまで含み得る

この違いは、2022年のウクライナ侵攻を直接説明するものではないが、ロシアが軍事力による強制を選択肢として考える戦略思想を理解する重要な手掛かりになる。

簡単にいうと

西側の「抑止」は、家の前に番犬を置いて、

「入ったらかまれるから、入るのをやめよう」

と思わせるイメージに近い。

相手が何もしなければ成功である。

ところがロシアの「戦略的抑止」は、それだけではない。

相手がこちらにとって好ましくない行動を続けるなら、圧力を強め、軍隊を動かし、場合によっては実際に攻撃して、

「続けるならさらに大きな代償を払う。行動を変えろ」

と迫ることまで、一続きの手段として考えることがある。

つまり日本語では同じ「抑止」と訳されても、想定している範囲がかなり違うのである。

西側では「やらせない」と「やらせる」を分ける

欧米の戦略論では、この違いを比較的はっきり区別する。

deterrence(抑止)は、「何かをするな」と相手に思いとどまらせること。

これに対して、圧力や武力によって「この行動をやめろ」「こちらの要求を受け入れろ」と相手に行動を変えさせることは、compellence(強要・強制)と呼ばれる。

たとえば、

「攻撃してきたら反撃するぞ」

なら抑止である。

一方、

「攻撃を続ける。止めてほしければこちらの要求を受け入れろ」

となれば強制である。

西側の戦略論では、この二つは似ていても別の概念として扱われる。

ロシアの「сдерживание」はもっと広い

ロシア語の「сдерживание」は、「持つ」を意味する言葉を語源に持ち、「押さえる」「食い止める」「抑え込む」といった意味を持つ。

そのため、英語のdeterrenceのように「恐怖によって思いとどまらせる」という意味だけに限定されない。

実際、冷戦時代のアメリカの「containment(封じ込め政策)」もロシア語では同じсдерживаниеという言葉で表現できる。

さらにロシア軍事思想では、「戦略的抑止」という概念が発達した。

研究では、これには西側で別々に扱われる、

抑止、強制、政治・経済的圧力、情報戦、戦争中のエスカレーション管理

などがまとめて含まれていると分析されている。

2020年に米国のCNAがまとめたロシア軍事思想の研究でも、戦略的抑止は平時だけでなく戦時にも使われ、軍事・非軍事の手段を組み合わせて相手の判断を変える考え方として整理されている。

なぜ「攻撃」まで抑止になり得るのか?

ここが西側との大きな違いである。

西側の古典的な抑止論では、実際に戦争が始まれば、

「抑止に失敗した」

と考えるのが自然である。

しかしロシアの戦略的抑止では、戦争が始まった後も相手の行動を変えるための圧力は続く。

軍事力を見せる。

限定的に攻撃する。

さらに大きな損害を与えられると示す。

それによって、

「これ以上続けても得にならない」

と相手に判断させ、戦闘を縮小させたり、自国に有利な条件で紛争を終わらせたりする。

こうした行動まで「戦略的抑止」という大きな枠の中で扱われ得る。

そのため、西側から見れば「強要」や「攻撃」に見える行為でも、ロシアの戦略思想では「相手を押さえ込むための手段」として同じ体系に入ることがある。

ウクライナ侵攻の遠因になったのか?

この違いだけで、2022年のウクライナ侵攻を説明することはできない。

侵攻には、ロシア指導部のウクライナ観、NATOへの脅威認識、大国としての勢力圏意識、ロシア国内の政治判断など、複数の要因が絡んでいる。

また、「戦略的抑止」という考え方があったから侵攻が起きた、と因果関係が証明されているわけでもない。

ただし、侵攻を可能にした戦略思想上の背景の一つと見ることはできる。

2025年に学術誌『International Security』に掲載された研究では、2022年の全面侵攻時点で、ロシアにはすでに核兵器、通常兵器、情報手段を組み合わせた「戦略的抑止」の体系があり、その中には西側でいうdeterrenceだけでなくcompellenceも含まれていたと分析されている。

つまりロシアの安全保障思想では、

「戦争を防ぐために力を見せること」と「実際に力を使って相手の行動を変えること」の間に、西側ほど明確な境界線がない。

ここが重要なのである。

「ロシア語では抑止という単語の意味が違うから戦争になった」という話ではない。

むしろ、ロシアでは長い間、外交、威嚇、経済的圧力、情報活動、軍事力の行使までを組み合わせて相手を押さえ込むという、広い「戦略的抑止」の考え方が発達してきた。

そのため、軍事力によって相手の政治判断を変えるという選択肢を、戦略の延長として考えやすい土壌があった。

この西側との「抑止」の考え方の違いは、ウクライナ侵攻の唯一の原因ではない。しかし、なぜロシアが威嚇だけでなく実際の軍事力による強制へ踏み込んだのかを理解するうえで、無視できない背景の一つである。

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