日本はなぜ「共通OS」を育てられなかった? BTRONで見えた官民それぞれの判断

何が起きた?
1980年代、日本では東京大学の坂村健氏を中心に「TRONプロジェクト」が進められていた。特定企業が独占する製品ではなく、公開された共通仕様を複数のメーカーが利用する「オープンアーキテクチャ」を目指した計画である。
そのうちパソコン向けの「BTRON」は、当時主流だったMS-DOSとは大きく異なり、グラフィカルな操作画面、ウィンドウシステム、アプリ間のデータ互換、多言語処理などを最初から重視していた。1989年に発表された論文でも、BTRONはグラフィカルインターフェースとウィンドウシステムを備えた環境として説明されている。
そして1987年、学校向けコンピュータの共通仕様を検討していたコンピュータ教育開発センター(CEC)で、BTRONが有力候補となった。
後年の研究によると、松下、日本IBMなど11社がBTRON案を提出する一方、国内パソコン市場で圧倒的な強さを持っていたNECはMS-DOS案を提出。最終的にはBTRONとMS-DOSを併用できる案まで検討された。
日本が独自の共通ソフトウェア基盤を作れるかもしれない、大きな分岐点だった。
しかしBTRONが日本の標準的なパソコン環境になることはなく、1990年代にはWindowsとIBM PC系の互換機が日本でも急速に広がっていった。
簡単にいうと
BTRONが広がらなかった原因を「NECが反対したから」「米国に潰されたから」と一つに決めるのは正確ではない。
むしろ重要なのは、関係者それぞれに、自分の立場から見れば合理的な事情があったことだ。
NECには、すでに成功しているPC-9800シリーズと大量の対応ソフトを守る理由があった。
他のメーカーには、NECの独自規格に対抗するため共通規格を作りたい理由があった。
学校には、すでに使っている教材や教師が作ったプログラムを捨てたくない事情があった。
政府には、共通規格を育成したい一方で、一つのOSを事実上強制して外国企業を排除していると見られることを避けたい事情があった。1989年の国会でも政府は、TRONの先進性やオープン性を評価しながら、学校でどのOSを採用するかは各学校側の判断になるとの立場を示していた。
一つ一つを見ると、それほど不合理ではない。
ところが全員が自分にとって合理的な判断をした結果、日本全体として世界に通用する共通ソフトウェア基盤を育てる戦略が弱くなってしまったのではないか、という問題が浮かび上がる。
BTRONは「日本製MS-DOS」ではなかった
BTRONで注目すべきなのは、単に「日本製OSだった」ということではない。
当時のMS-DOSは基本的に文字によるコマンド操作を中心としたOSだった。一方のBTRONは、人間が直接操作するコンピュータを想定し、GUIやウィンドウ、統一された操作方法などを重視していた。
さらに重要なのが、メーカーやアプリが違ってもデータを扱えるようにするという発想である。
BTRONの目的には、メーカー間での操作方法の標準化、アプリケーション間でのデータ互換、複数の文字体系への対応などが含まれていた。
つまり、
「NECのパソコン用ソフト」
「富士通のパソコン用ソフト」
「松下のパソコン用ソフト」
をそれぞれ作るのではなく、
「BTRON用ソフトを作れば、複数メーカーの機械で使える」
という市場を作れる可能性があった。
これは単なるOSの違いではない。
ソフトウェア会社が一つの大きな市場を相手に商売できるかどうかという、産業構造そのものの違いだった。
NECの判断も、NECから見れば合理的だった
当時のNECにはBTRONへ全面的に乗り換えにくい事情があった。
PC-9801は1982年に登場し、その後の日本のビジネス向けパソコン市場で大きな地位を築いていた。NECは独立系ソフト会社に開発機材や技術資料を提供し、多数のアプリケーションや周辺機器が存在する一大エコシステムをすでに形成していた。
そこで突然、
「これから全国共通のBTRONへ移ります」
となれば、PC-98というNEC最大の強みが薄れてしまう。
しかも学校にもPC-98用のソフトや、教師自身が作ったプログラムが存在していた。
後年のJAISTの研究では、NECがBTRONに反対した理由として、こうした既存ソフトが使えなくなることへの懸念が挙げられている。
NECだけを見れば、自社のユーザーと既存資産を守ろうとするのは自然な企業判断だった。
問題は、その判断が他社の判断と組み合わされた結果、日本全体ではメーカーごとに異なる環境が残り、統一されたソフトウェア市場を形成しにくくなったことである。
政府も「BTRONを国策OSにする」とは決めなかった
政府側もTRONの価値を理解していなかったわけではない。
1989年の国会では、通産省がTRONについて「先進性」「オープン性」「緩やかな標準性」を特徴として説明している。
さらに、日本では汎用コンピュータープログラムの活用が遅れており、互換性を高めてソフトウェア資産を活用することが重要だとも説明していた。12社からBTRONの考え方を取り入れた試作機も提出され、評価作業が進められていた。
つまり政府自身が、
「日本はソフトウェアの互換性と標準化が弱い」
という問題をある程度認識していたことになる。
一方、教育用パソコンとBTRONが結びつくと、米国側から「政府が特定規格を使って外国企業を締め出すのではないか」という通商上の懸念が出た。
政府はBTRONが特定企業だけの規格ではなく、外国企業も参加可能なオープンな仕組みだと説明したものの、最終的に教育用PCをBTRON一つで統一する形にはならなかった。
ここでも、
「国内産業を育てたい」
という政策と、
「特定規格を政府が押しつけてはいけない」
という政策が衝突したと見ることができる。
本当の失敗は「TRONを選ばなかったこと」なのか?
BTRONを採用していれば、日本がWindowsに勝っていたと断定することはできない。
当時すでにAppleはGUIを備えたMacintoshを販売し、MicrosoftもWindowsを開発していた。
さらに世界ではIBM PC系の互換機が急速に広がっていた。
日本IBMが1990年前後にDOS/Vを投入すると、特別な日本語表示用ハードを必要とせず、世界標準に近いPCで日本語を扱えるようになった。その後Windowsが普及し、世界市場の規模を利用できるPC/AT互換機が日本にも入ってきた。
BTRONを学校へ導入しただけで、この巨大な世界規模のネットワークに勝てた保証はない。
それでも、BTRONの歴史から一つの重要な問いは残る。
日本は1980年代という早い段階で、GUI、多言語処理、データ互換、公開仕様という考え方を持つ共通基盤を作ろうとしていた。
しかも大手メーカー、大学、政府、教育市場まで関わっていた。
それにもかかわらず、
NECはPC-98を守る。
他社はNECへの対抗手段としてBTRONに参加する。
学校は既存ソフトを守る。
政府は企業間調整と通商問題を避ける。
各メーカーはBTRON以外の独自規格も並行して開発する。
という状態になった。
後年のJAISTの研究でも、BTRON参加企業が必ずしも一枚岩ではなく、BTRON以外の規格も同時に進めていたことが指摘されている。
これは「誰か一人が間違えた」というより、全員が自分の立場では合理的に行動した結果、全体として大きな機会を逃すという構造だったと考える方が分かりやすい。
日本のIT産業にとって本当に惜しかったのは、BTRONという一つのOSを採用しなかったことそのものではないのかもしれない。
より大きな問題は、
日本の官民が、企業や省庁を越えて長期間維持できる共通ソフトウェア・プラットフォームを育てる戦略を作れなかったこと
だったのではないか。
PC-98という国内標準を作ることには成功した。
TRONから生まれた組み込み向け技術も、その後広く利用された。
しかし、Microsoftや後のGoogle、Appleのように、多くの企業がその上でソフトやサービスを作り、それ自体が巨大な市場になる基盤を日本発で確立することはできなかった。
BTRONは、その可能性が一度はかなり具体的な形まで見えていた事例として、今でも検証する価値がある。
情報源
- 国会会議録検索システム「第114回国会 衆議院 商工委員会 第7号」
- TRON Forum「TRON PROJECT」
- ScienceDirect「Operating system based on the BTRON specifications」
- ScienceDirect「Educational aspects of BTRON」
- 北陸先端科学技術大学院大学「TRONプロジェクトの標準化における成功・失敗要因」
- 情報処理学会 コンピュータ博物館「PC-9801」
- NEC「NECパソコンの歴史」
- @IT「日本のPC史を振り返る(後編)―Windowsの登場でPC-9801からPC互換機へ」